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奥の細道ー有磯海−


黒部四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて那古といふ浦に出づ。
担籠の藤浪は春ならずとも、 初秋のあはれ訪ふべきものをと、人に尋ぬれば「これより五里、
磯づたひしてむかうの山陰に入り、 蜑の苫ぶきかすれかなれば芦の一夜の宿かす者あるまじと言ひおどされて、加賀の国に入る。

早稲の香や 分け入る右は 有磯海


雨晴海岸



曽良の随行記によれば高岡に一泊しているのですが、芭蕉はそれを記しませんでした。
このことについて、 伏木出身の堀田善衛は、この芭蕉の越中入りについて、おもしろい話を伝えています。

『奥の細道』を読みかえしてみてから、なぜ芭蕉さんは越後から一足飛びに加賀の金沢へ行ってしまったのかと訊ねると、 お婆さんはこともなげに、
 「それぞれに縄張りがあってやな。俳諧だと越中は京のテイモンが多かったんや。うちもそうじゃった」
と答えた。テイモンは、京都の貞徳の門、松永貞徳の流れ、ということであった。
--堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』 より--

「奈古の江」を詠んだ近代の歌を2首紹介しましょう。

国つ司家持の大人たまかけり遊び見まさむこれの那古の江(佐佐木信綱)

二上山北のなだれは奈古の海に尽くと見るまで裾引きにけり(吉田正俊)