平成13年度 古代をまなぶ 講義予定表


◆5月27日(日) 「難波─防人歌の収集─」 田中夏陽子

 万葉の時代の難波は、海外に開かれた港として、交通・経済の要所として栄えた土地である。越中から帰京した家持は、この難波の地で兵部少輔の任を通じ、収集した防人の歌を収集した。また、自らも防人の身になりかわり歌をよんだ。そうした防人をはじめとする古代に生きた人々の旅の諸相と、それがどのように歌としてよまれたかをみてみたい。

◆6月24日(日) 「最終歌をめぐってー因幡の国印と家持ー」 川ア晃

 周知のように天平宝字3年正月1日に家持は因幡国庁で『万葉集』最後の歌をよんだ。『万葉集』の題詞には「因幡」と書いてあるが、この頃の因幡国の公定の表記は「因幡」であったのだろうか。国の公定表記をめぐる問題から『万葉集』最終歌を考えてみたい。

◆7月29日(日) 「越中の家持─巻十八の巻末歌を中心に─」 佐々木敏雄

 万葉集巻十九の巻頭には天平勝宝二年三月一日から二日にかけての越中秀吟とよばれる歌群があり、その延長上にいわゆる絶唱といわれる巻末歌三首がある。この巻頭の歌群は、妻大嬢の都からの下向によって家持の詩心が高揚し、詠出されたものとされている。
大嬢来越の時期推定の根拠とされるのが、越中秀吟の直前にある巻十八の巻末歌である。この歌を中心に、大嬢の越中下向の時期に関する諸説について検討したい。

◆9月30日(日) 「大宰府を論じて平城京に及ぶ」 関隆司

 大伴家持は、少年の一時期を大宰府で過ごした。そこで家持はどのような影響を受けたのだろうか。また、大宰府から父の栄転に従って帰京したが、父はすぐに亡くなってしまう。平城京の邸宅で家持はどのような生活をしていたのだろうか。
ともにすでにこの講座で触れたことであるが、新たに考え直したことや補足を加えてみたい。

◆11月25日(日) 「佐保―家持とふるさとの自然」 川崎重朗

 平城遷都後、家持の祖父大伴安麻呂は佐保の地に邸を構え、『万葉集』ではその邸宅は「佐保の宅」と呼ばれている。家持は、大伴家の後継者として、少年期・青年期の大半をその「佐保の宅」で過ごしたと考えられる。「佐保の宅」の背後(北側)には佐保山があり、南にほんの少し出ると佐保川が流れる。また、東方には春日山が眺められる。家持は、この美しい自然の中で、育まれ、成長したのである。青年期の家持と佐保の自然との親和、交感をその歌を通して探ってみたい。

◆1月27日(日) 「絶唱三首への途─『ひとり』の語るもの─」 新谷秀夫

 越中での五年間を経てふたたび「平城京」へ戻った家持は、「絶唱三首」を残す。この家持代表作はなぜ生まれたのか。すでに研究されつくされた感のある問題だが、若き家持がすごした「恭仁京」での自然詠に源を求め、「ひとり」をキーワードにいま一度考えてみたい。

◆2月24日(日) 「宮都と地方官衙」 川ア晃

 家持の生涯をたどりながら、近年の発掘調査の成果、特に出土文字資料を参考に、平城京や甲賀宮(紫香楽宮)、長岡京などの宮都や地方の官衙(国府・郡家)について考えてみたい。なお、高岡市から出土した木簡についても紹介したい。

◆3月24日(日) 「万葉のうたげ─巻十八の田辺福麻呂饗応歌を中心に」 米田憲三

 万葉集の越中関係歌にも、宴席で詠まれた歌がきわめて多い。その中でも、巻十八の巻頭に載る田辺福麻呂来越歌群(24首)はきわめて特色あるもので、いずれも天平20年3月、橘家の使者として来越した福麻呂を歓迎した饗宴の場で詠まれた。しかもその饗宴は場所をかえて四日間におよぶ。福麻呂来越の目的は何であったのか。その政治的背景や歌に詠まれた布勢水海のこと、ほととぎすのことなどについて考察してみたい。

トップページへ