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高岡市万葉歴史館(たかおかしまんようれきしかん)ホームページ


大伴家持の生涯と万葉集



◆大伴氏の跡取り

 大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、生まれ年は養老2年(718)といわれています。母が旅人の正妻でなかったのですが、大伴氏の家督(かとく)を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)の佐保川べりの屋形で育てられました。けれどもその郎女とは11歳の年に、また父の旅人とは14歳の年に死別しており、さらにたった一人の弟書持(ふみもち)とも越中守(えっちゅうのかみ)在任中に29歳で死別しています。
 大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、みっちりと身につけてさせられていました。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に万葉集編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得することができたようです。またその歌をたどっていくと、のびのびとした青春時代をすごしていたようです。


◆越中に国守として赴任
 天平10年(738)にはじめて内舎人(うどねり)として朝廷に出仕しました。その後、従五位下(じゅごいげ)に叙(じょ)せられ、天平18年3月には宮内少輔となります。同年6月、越中守に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、越中国に在任していました。家持には通常の国守としての任務のほか、東大寺の寺田占定などの任があり、家持はその任をよく全うしていたようです。
 家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります。


◆帰京後、政権の嵐の中で

 家持は越中守在任中の天平勝宝元年(749)に従五位に昇進しますが、帰京後の昇進はきわめて遅れ、正五位下に進むまで21年もかかっています。しかもその官職は都と地方との間をめまぐるしくゆききしており、大伴氏の氏上としては恵まれていなかったことがうかがわれます。橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、さらに藤原氏の大伴氏に対する圧迫を受け続けていたのでしょう。
 家持は一族を存続するため、ひたすら抗争の圏外に身を置こうとしますが、そのため同族の信を失うこともあったようで、一族の長として奮起しなくてはならぬという責務と、あきらめとの間を迷い続けていたことを、万葉集に残した歌(4465・4468など)からうかがうことができます。


◆因幡国守、そして多賀城へ

 天平宝字3年(759)正月1日、因幡の国庁における新年の宴の歌を最後として、家持の歌は残されていないし、万葉集もこの歌で終わっています。家持がこの後、歌を詠まなかったのかどうかもわかっていません。家持は晩年の天応元年(781)にようやく従三位の位につきました。また、中納言・春宮大夫などの重要な役職につき、さらに陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍を兼ねます。家持がこの任のために多賀城に赴任したか、遙任の官として在京していたかについては両説があり、したがって死没地にも都説と多賀城説とがあります。


◆家持の没後
 延暦4年(785)68歳で病没しました。その死後20日、葬儀も終らぬうちに、藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、除名・官位剥奪・領地没収のうえ、その遺骨が実子の永主とともに隠岐に流されます。家持が無罪として旧の官位に復されたのは大同元年(806)でした。


◆家持と万葉集、越中時代
 家持の生涯で最大の業績は「万葉集」の編纂に加わり、全20巻のうち巻17〜巻19に自身の歌日記を残したことでしょう。家持の歌は万葉集の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位です。しかも家持の万葉集で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首です。その関係で越中は、畿内に万葉故地となり、さらに越中万葉歌325首と越中国の歌4首、能登国の歌3首は、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっています。


◆異境の地で深まる歌境
 越中守在任中の家持は、都から離れて住む寂しさはあったことでしょうが、官人として、また歌人としては、生涯で最も意欲的でかつ充実した期間だったと考えられています。そして越中の5年間は政治的緊張関係からも離れていたためか、歌人としての家持の表現力が大きく飛躍した上に、歌風にも著しい変化が生まれ、歌人として新しい境地を開いたようです。


◆越中の風土の中で → 越中万葉歌めぐり
 国守の居館は二上山(ふたがみさん)を背にし、射水川(いみずがわ)に臨む高台にあり、奈呉海(なごのうみ)・三島野(みしまの)・石瀬野(いわせの)をへだてて立山連峰を望むことができます。家持はここで四季折々の風物を歌題とし、漢詩文を基盤とした歌を詠みますが、しだいに四季の風物を素材として、自分の思いを歌う王朝和歌的な歌に近づいていきます。万葉集と王朝和歌との過渡期に位置する歌人として高く評価される大伴家持の歌風は、越中国在任中に生まれたのです。





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