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越中国射水郡須加野地開田図 

越中国東大寺開田図の写真複製

(実物大)

 天平勝宝元年(749)に、諸大寺の墾田私有が認められた際、東大寺が開墾して私有田にすることを許されたのは4,000町でした。この田地を確保するため、東大寺占墾地使僧平栄が越中国や越前国におもむき、国司や郡司の協力を得ながら、大規模な墾田地の占定作業を進めました。
 こうして確保した東大寺領が越中国には10か所あり、その墾田地の地図が正倉院その他に17枚残っています。その地図を東大寺開田図と呼んでいるのです。これらの地図には、田地の面積、所領地の四方の境、開発状況等がくわしく図示・記入されているため、古代の土地経営を知る貴重な手がかりになっています。

◆越中国射水郡須加野地開田図
 「越中国射水郡須加野地開田図」は正倉院蔵品で麻布に描かれ、59個の越中国印が押してあり、天平宝字3年(759)11月14日の日付があります。この図によると須加の田地総面積は35町1段224歩で、うち開田されているのは28町5段314歩、未開地は6町5段270歩となっており、東は上須加里5行と6行の堺の畔、南と西は公田、北が須加山となっています。当時の東大寺側の係員や、越中の国司らが署名しており、大伴家持が丁重にもてなしをしたことが「万葉集」に確認できる僧の平栄の名も見えます。

◆越中国射水郡鹿田村墾田地
  「越中国射水郡鹿田村墾田地」の神護景雲元年(767)11月16日の地図も正倉院蔵品で、麻布に描かれています。この図によると鹿田村の墾田地全面積は30町3段20歩で、うち開かれていたのは22町8段200歩(神田1段を含む)、未開の野地が7町4段180歩となっています。また鹿田村の東と南は百姓の口分田(公地)、西は石川朝臣豊成の墾田、そして北が京(平城)の法華寺溝となっています。末尾には越中国利波郡の豪族で、東大寺に米や土地を寄進した功績により国司に昇進した利波臣志留志(となみのおみしるし)が、専当国司(墾田地の検地担当国司)として署名しています。
 これらの地図には条里や坪別開田状況、川・溝などの水路も記され、初期荘園の状況を知るうえで、重要な手掛かりとなっています。



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