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遣唐使船画像 

遣唐使船の模型

 遣唐使とは、舒明天皇2年(630)から寛平6年(894)の間に、日本から唐に派遣された公式の使節のことです。およそ20回任命されましたが、そのうち、実際に渡唐したのは16回でした(『国史大辞典』による)。

 遣唐使船には、大使・副使とその随員以外にも、通訳・医師・留学生・学問僧たち、船を操る船長や漕ぎ手たちと、1隻に120人ほど乗っていました。はじめのころは、1隻か2隻の帆船で渡海しましたが、8世紀にはいると4隻となり、多い時は一行全員で500〜600人にもなりました。

 遣唐使船の大きさは長さが30m、幅7〜8m、帆柱2本で平底箱型。鉄釘はほとんど用いず、平板をつぎあわせて造ってありました。そのため波切りが悪く、不安定で、強風や波浪に弱いという欠点がありました。また、航期や航路をあやまることが多く、遭難する船が少なくなかったのです。なお、近年では遭難の最大の原因は、定員オーバーや積載オーバーではなかったかとみられています。

 唐への航路は、はじめ朝鮮半島沿いに渡海し、山東半島に上陸して唐の都・長安に向かう北路をとりましたが、朝鮮半島にあった新羅との関係が悪化した8世紀以後は東シナ海を横断して、揚子江の河口付近に上陸し、長安に向かう南路をとるようになりました。遣唐使船は無風や逆風の際は帆をおろし、櫓を用いたので多数の漕ぎ手を乗せており、また漂着した場所での安全を守るため、同じく多数の射手を乗せていました。

 こうした多くの危険があるにもかかわらず、派遣される人物には、貴族の子弟のすぐれた人物が選ばれ、留学生や学問僧も、傑出した人材が選ばれました。そのため入唐経験者のなかには、帰国後にわが国の政治や文化に、かけがえのない役割をはたした山上憶良・吉備真備・最澄・空海といった人物が多くみられます。

 遣唐使が帰国の際に伴ってきた鑑真をはじめとする多くのすぐれた渡来人や文物は、わが国の政治や文化の発達に大きく貢献しました。現在まで伝えられている日本文化の基底は、この遣唐使船に乗っていった人々や、その人々がもたらした文物によって築かれたといっても、言いすぎではありません。

 なお、当館の模型は、実際の6分の1にして作成しています。


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