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大和王権発祥の地─纒向



◆纒 向 遺 跡(まきむくいせき)

 大和の最初の王者は『古事記』や『日本書紀』に伝える崇神天皇とする説が有力である。
 『古事記』『日本書紀』には、崇神の王統は三輪山西南麓の磯城・纒向に宮を構えたと伝えており、それに対応するかのように巨大な前方後円墳が築造されている。
 この三輪山西南麓の地で注目されるのが纒向遺跡である。纒向遺跡は、奈良県桜井市北部にある三〜四世紀の遺跡群である。その範囲は北を烏田川、南を巻向川、西を初瀬川に挟まれた扇状地に広がり、東西二キロ、南北一、五キロに及んでいる。
 この地域には出現期の前方後円墳である石塚古墳(墳丘長九三メートル)・ホケノ山古墳(八十メートル)や、最初の大型前方後円墳である箸墓古墳(二八〇メートル)などが築造されている。
 また、当時一般的であった竪穴住居は少なく、掘立柱建物跡や排水(導水)施設遺構、「人」字形に延びる大溝(水路)、また、各地から移入された土器などが検出されている。
 この都市的要素をもつ集落遺跡を邪馬台国とみる学者もいる。
 纒向遺跡は、大和の王権を考える上で注目される地である。

◆箸 墓(はしはか)

箸墓古墳

  大坂に 継ぎ登れる 石群を 手ごしに越さば 越しかてむかも

     大坂山の麓から頂まで連なる多くの石だが、手渡しに運べば 運ぶことができるだろう

 このうたは『日本書紀』によると、大物主神の妻となり、その正体が蛇だと知って驚き死んだ倭迹迹日百襲姫の「箸墓」を築造した人々が歌ったものである。
 纒向古墳群の中でもっとも大きく、全国でも一〇位に入る大きさを持つ前方後円墳である「大市古墳」は、『日本書紀』崇神天皇の条に記された「三輪山説話」によって、「箸墓」と呼ばれることの方が多い。
 壬申の乱では、倭古京の奪還をはかる近江軍が大海人軍に撃破された地が箸墓であり、この時に活躍したのが、のちに持統天皇の伊勢行幸を、農事を妨げると諫めた三輪高市麻呂である。
 またこの時の大海人側の将軍こそが、大伴家復興の礎となった大伴吹負である。『日本書紀』に見える吹負ら大伴氏の活躍記事は、大伴氏の「家記」によるのだろうともいう。
 大伴家持も、この戦いの話を知っていただろう。

◆弧 文 板 (長さ二三センチ、幅六・五センチ、厚み〇・九センチの楕円形。桜井市巻野内 家ツラ 地区出土)

 纒向遺跡からは弧文と呼ばれる文様をもつ石板、土器片、木製品、板状製品(弧文円板・弧文板)など五点がこれまでに発見されている。
 弧文は吉備地方(岡山県)にルーツをもつ特殊器台の弧文帯から発展した文様と考えられている。
 展示品は建物跡や排水施設を検出した家ツラ地区で発見された板状の製品で、表裏に文様があり、半分が失われている。
 家ツラ地区出土の弧文板は、三世紀後半の三輪山の祭祀に用いられたと考えられているが、もうひとつの弧文円板は石塚古墳の周溝から発見されており、葬送儀礼に用いられたとする見方もある。
 いずれにしても具体的にどのように用いたかは不明である。

◆纒向遺跡出土の北陸系土器 (桜井市大豆越出土・桜井市埋蔵文化財センター所蔵)

 三世紀後半の纒向遺跡では出土土器の約三〇%が他の地域の土器である。周辺地域だけではなく、東海・山陰・山陽・北陸からも土器が移入されている。
 これを交易によるものではなく、外来者が搬入したもの、あるいは外来者が居住して生産したとする見解が有力である。
 展示している土器は、口縁部径十七・三センチ、復元高二四・二センチ、鍔状把手上部径十五センチの大きさで、石川県加賀地方にみられる装飾器台の特徴を備えている。口縁部にみられる平行線、しずく(水滴)形をした透かし穴、中段の鍔状把手は北陸系独特のものである。また、脚台は日本海側の但馬・丹後地方にみられる高坏と共通点をもっている。


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