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柿本人麻呂・藤原京関連年表

 西暦  元号 柿本人麻呂・藤原京関連事項
672年 (天武元) 壬申の乱。人麻呂も戦闘に参加か。飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に遷る。
680年 (天武9) 人麻呂歌集(ひとまろかしゅう)七夕歌の中の一首(巻十・二〇三三)はこの年の作。制作年代が明らかな最初の歌。
684年 (天武13) 巡行して宮の地を定める。
686年 (朱鳥元) 天武天皇没。大津皇子の変。人麻呂歌集巻向歌群(まきむくかぐん)はこのころまでの作か。
689年 (持統3) 草壁皇子(くさかべのみこ)没。草壁皇子殯宮挽歌(ひんきゅうばんか)(巻二・一六七〜七〇)、この年か翌年によまれる。
690年 (持統4) 持統天皇即位。吉野行幸。吉野讃歌(よしのさんか)(巻一・三六〜七)はこの時の作か。高市皇子(たけちのみこ)、藤原宮の地をみる。
691年 (持統5) 泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)・忍壁皇子(おさかべのみこ)に奉る挽歌(巻二・一九四〜五)。
692年 (持統6) 持統天皇伊勢行幸(いせぎょうこう)、都に留まる歌(巻一・四〇〜二)をよむ。藤原宮を地鎮する。
693年 (持統7) 京の造営で掘出した屍を収容する。天皇、藤原宮の地へ行幸する。
694年 (持統8) 藤原宮へ変遷。藤原宮役民歌(えきみんのうた)(巻一・五〇)、藤原宮御井歌(みいのうた)(巻一・五二〜三)はこの年の作か。
696年 (持統10) 高市皇子没。高市皇子殯宮挽歌(巻二・一九九〜二〇一)をつくる。
697年 (文武元) 持統天皇譲位、文武天皇(もんむてんのう)即位。
700年 (文武4) 明日香皇女(あすかのひめみこ)没。明日香皇女殯宮挽歌(巻二・一九六〜八)をつくる。制作年代が明らかな最後の歌。人麻呂はこのあと数年後に没したか。
701年 大宝元 大宝律令完成。出雲娘子挽歌(いずものすらつめばんか)(巻三・四二八〜三〇)はこのころの作か。
702年 大宝2 持統上皇没。
707年 慶雲4 文武天皇没、元明天皇(げんめいてんのう)即位。
708年 和銅元 和銅開珎を鋳造する。柿本佐留卒、人麻呂と同人とみる説がある。
710年 和銅3 平城京遷都。
711年 和銅4 藤原宮、大官大寺など焼亡する。
747年 天平19 越中で大伴家持(おおとものやかもち)が「山柿の門(さんしのもん)」と人麻呂を崇拝する。
905年 延喜5 紀貫之(きのつらゆき)ら、『古今和歌集』を撰進するか。仮名序(かなじょ)で人麻呂は「歌の聖(ひじり)」と称揚される。
947〜956年  天暦年間 このころ『大和物語』の原形成るか。人麻呂と采女(うねめ)の純愛物語を含む。
1004〜1011年 寛弘年間 藤原公任(きんとう)『三十六人撰』成るか。人麻呂は紀貫之とともに歌仙の代表格となる。
1069年 延久元 夢に見た人麻呂を絵師に描かせた藤原兼房(かねふさ)が、死に臨んでその像を白河院に献呈する。
1069〜1073年 延久年間 このころ『三十六人集』成るか。『人麿集』を含む。
1118年 元永元 藤原顕季(あきすえ)、はじめて「人麿影供(ひとまろえいぐ)」を催す。
1219〜1221年 承久年間 現存最古の歌仙絵(かせんえ)「佐竹本(さたけぼん)」、このころ成るか。



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