はじめに

 「日本海」という語は、『万葉集』に見えない。しかし、歌われた日本海沿岸の「海」のつく地名を拾い上げてみると、「石見(いわみ)の海(巻二・131)、「飫宇(おう)の海」(巻三・371など)という島根県の海、「三方(みかた)の海」(巻七・1177)という福井県の海もあるが、「奈呉(なご)の海」(巻十七・3989など)「布勢(ふせ)の海」(巻十七・3991など)、「羽咋(はくい)の海」(巻十七・4025など)、「珠洲(すず)の海」(巻十七・4029)というように、大半は大伴家持(おおとものやかもち)が国として赴任していた越中国(いまの富山県と石川県の能登地方)の「海」に集中する。

 これらの「海」の多くは、内陸に入り込んだ湾や入り江、砂丘などで外海から隔てられた潟や湖である。森浩一氏は、このような(せきこ)が、その地域の政治・経済・文化の拠点的役割をになっていたと考え、潟湖を中心とする日本海文化の形成を指摘された。

 『万葉集』に歌われている「日本海」は、まさに古代びとたちの活動の拠点であった場所だったのだ。

えっちゅうまんようのうみ

 天18(746)大伴家持が国として越中に赴任する。その最初の宴席ですでに家持は、海辺の景を詠んでいる。

馬並()めて

いざうち行()かな

渋谿(しぶたに)

き磯(いそ)

寄する波(なみ)()

(巻十七・3954 大伴家持(おおとものやかもち))

 馬を並べて、さあ出かけようじゃないか。渋谿の清らかな磯辺に打ち寄せる波を見るために。

 馬を連ねて出かけようとした「渋谿」は、現在の海岸である。海上はるかに立山連峰を望むことができる景勝地で、富山県の「海」を代表する風景のひとつであろう。

東風(あゆのかぜ) 

たく吹くらし

奈呉(なご)の海人(あま)の 

釣する小舟(をぶね) 

()(かく)る見ゆ


(巻十七・4017 大伴家持(おおとものやかもち))

 あゆの風が激しく吹いているらしい。奈呉の海人たちの釣りをする小さな舟の漕ぎ進むのが、高波のあいだから見え隠れしている。

 現在の射市(いみずし)あたりの海で漁をする様子を詠んだ家持の歌である。「あゆの風」で海が荒れているさまを歌っている。

 さて、都に残った弟書持(ふみもち)の突然の訃報に接した時、家持はつぎの歌を詠んだ。

         

かからむと かねて知りせば

(こし)の海の 

荒磯(ありそ)の波も

 見せましものを

(巻十七・3959 大伴家持(おおとものやかもち))

 こうなると前々から知っていたならば、この越の海の荒磯にうち寄せる波でも見せてやるのだったのに。

 この歌に見える「越の海の荒磯」こそ、越中に来た家持がはじめて見た日本海の景を象徴するキーワードである。

 当館が所蔵する、「越の海」を素材として生み出された絵画・写真・書などの作品を通して、家持が見て歌に詠んだ「日本海」を体感してみてください。

佐竹清展示風景
左:佐竹 清(版画)
渋谿(しぶたに)の崎」
右:展示風景
実習生Yさん(富山大学)作成

海フェスタとやま記念「越中万葉の海」

高岡市万葉歴史館