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日めくり万葉集ブログ-万葉からMANYOへ-
第30回 大伯皇女の嘆きの地(藤原茂樹)
2024年11月30日
大津皇子の屍(かばね)を葛城(かづらき)の二上山に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女(おほおくのひめみこ)の哀(かな)しび傷(いた)みて作らす歌二首
うつそみの
人(ひと)なる我(われ)や
明日(あす)よりは
二上山(ふたがみやま)を
弟(いろと)と我(あ)が見む
巻二・165 大伯皇女
〔現代語訳〕
現(うつ)し世(よ)の 人である私は 明日からは 二上山を 弟として見るのでしょうか
大伯皇女は、斉明天皇西征の途次備前国大伯の海で生まれた(六六一年)。波乱の中にはじまった人生である。大伯皇女には、大津皇子という弟がいた。二人は天武天皇の子どもだが、幼くして母を亡くし、壬申乱の翌年(六七三年)に姉の大伯は伊勢斎王となり都を離れる。それから十三年後、父の天武天皇が亡くなる(六八六年九月九日)と、ひと月もたたない十月三日初冬の日に弟の大津皇子は処刑されてしまう。斎王の任を解かれて大伯皇女が大和に戻るのは、十一月十六日であった(『日本書紀』)。『萬葉集』では、大津皇子薨後大伯皇女が伊勢斎宮より京に上る(巻二164)とあるが、後代斎王は天皇崩御とともに交代するので、事件がなければ、都で大津との再会が果たせたかもしれない。もっとも、託基(多紀 たき)皇女がつぎの斎王に選ばれたのが十二年(六九八年)も後だったことからすると事態は流動的だったといえそうである。
本歌は、同題詞にもう一首歌をもつ。
磯の上(うへ)に 生(お)ふるあしびを 手折(たを)らめど 見すべき君が ありといはなくに
(巻二・166)
ただ左注には、移葬の歌に似ずとして
「伊勢神宮より京に還る時に路の上に花を見て、感傷哀咽(かんしやうあいえつ)してこの歌を作るか」
と訝(いぶか)しむ。
伊勢から大和への道すがら、弟の死を嘆き辛さに立ち止まる場所はいくらもあるとして、斎宮からの官道沿い、まもなく大和に入るという名張の夏見は、その候補地となりうる。『薬師寺縁起』(醍醐寺本諸寺縁起集)に、大伯が父天武のために伊賀国名張郡に昌福寺を建立したとある。それを神亀二年(七二五)とするのは不正確だが、夏見廃寺金堂須弥壇部分からは甲午年(六九四年)の表記が発見されている。
大海人皇子(おおあまのみこ 後の天武天皇となる)が乱の折に占いをして瑞兆を得たのも当地。大伯皇女の所領の地とも想像されている(『三重県の地名』)。皇女の薨去は大宝元年(七〇一)十二月二十七日、四十一歳。孤独な生涯であったと想われる。
ところで、同館の坂本前館長最新の自信作「大伯皇女哀歌」(三十首)がある。大伯皇女の生涯を皇女になりかわって歌物語風にうたいあげている。数首紹介しておく。
*仮に歌の並び順に番号を付しておいた。万葉歴史館玄関内に、全三十首を掲示中、一読の価値がある。
(藤原茂樹)
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※上部の大伯皇女像の画像は、永瀬卓氏の作品「大伯皇女Ⅱ」より。
永瀬卓(ながせ・たく):1948年埼玉県生まれ。東京教育大学教育学部芸術学科卒。中学校の美術教諭退職後、日本の古代をテーマにした人形制作を開始。2022年、日本画家で造形作家の中田文花氏がSNSで永瀬氏の人形を紹介して注目を浴びる。2024年7月、平城宮いざない館で「万葉挽歌―人形からみる古の奈良―」展(主催:平城宮跡管理センター・奈良文化財研究所)を開催。49日の会期中に2万人もの人が訪れた。
Xアカウント:永瀬卓 @karinto929 (https://x.com/karinto929)
「Making of 万葉挽歌」【公式】なぶんけんチャンネル
夕陽の二上山(フォトACより)
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