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第38回 禁止令まで出た双六の流行(藤原茂樹)

2025年07月28日NEW

うちの女房の 額に生えてる

双六盤(すごろくばん)の 

大きな牡牛(おうし)の 

鞍(くら)の上にある瘡(かさぶた)

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我妹子(わぎもこ)が

額(ひたひ)に生(お)ふる

双六(すぐろく)の

牡(ことひ)の牛の

鞍(くら)の上(うへ)の瘡(かさ) 

阿倍子祖父(あへのこおおじ) 巻十六・三八三八

 

 万葉時代のナンセンスソングである。無意味なことばの列なりが常識的な情理の外周をぐるぐるまわっている。

 我が国の古い時代に出て来る双六は、盤上の駒を賽(さい さいころ)の目によって対戦者の陣地に進める遊戯で、正倉院御物として螺鈿細工のそれはみごとな盤もありサイコロも残っていて、正倉院展などの折に実物をおがめる。ローマから絹の道を経て伝来したといわれるがいつ日本に来たかは不明。わが国の室内遊戯最古のものといってよく、後の時代の『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ 18世紀)には囲碁よりも早くに伝来したとする。

 『本朝世事談綺』(ほんちょうせじだんき 18世紀)態芸門(たいげいもん)に「梁武帝天監年中日本へわたす、本朝二十六代、武烈帝に当たる」とあるが、こんなのはあやしい。正式な記録は、『日本書紀』持統天皇三年(689年)に禁止記事がある。他に『万葉集』と重なる時代では、天平勝宝六年(754年)に、〈官人も百姓も法を畏(おそ)れず、私に集まり任意に双六をし、淫迷に至る。子は父に順(したが)わず、終(つい)に家業を亡(うしな)い孝道を損(そこな)う〉として七道諸国に禁令が出され、杖などの処罰(杖で打つ罰など)規定がつくられた(12世紀末頃『法曹至要抄』禁制条)が、一向に止むことはなく、日本中の庶民から役人にまで広く双六が行なわれつづけたようだ。

 こうして双六は、江戸時代にいたるまで、我が国の賭博の主たるものとなる。『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき げんぺいじょうすいき 14世紀頃)に「白河院は、賀茂川の水、双六の簺(さい)、山法師、これぞ朕(わ)が心に随(したが)はぬもの」とあるように、天皇・貴族をもまきこんで大流行をつづけた。『今昔物語集』(12世紀か)悪行篇では、双六がもとでの通りすがりの殺人事件まで書かれている。

万葉集には、

 

一二(いちに)の目(め) のみにはあらず 五六三(ごろくさむ) 四(し)さへありけり 双六(すぐろく)の頭(さえ)   巻十六・三八二七

と詠まれた。神のみぞ知る賽の目に対するプレイヤーの祈りは、

五四(ぐし)をふれば、五四五四(ぐしぐし)と啼(な)くは深山(みやま)の時鳥(ほととぎす)、三六なれば、三六(さぶ)さつて猿眼(さるまなこ)、また重五(でく)をよするとき、さつと散れ山桜

(19世紀『柳亭記』)

などといった様々な地口(じぐち)を発達させる。そして、夢中になったのは、男ばかりではなく、女もまた。

 近江君(『源氏物語』)を思えばよい。

賭けごとは、自身の運命や運勢を神さまはどうみているだろう、と試す行為が原理だと説かれている。無意味なことばを勝負の狂騒のなかで派手にとなえるのは、神霊の加護(女神の微笑み?)を自分にふり向けようとする必勝祈願の呪文ともいえる。冒頭の我妹子の額に生ふる双六の・・なども、神へのことばが賭け事の呪文に品下ってゆく間に派生してきた笑いを誘う歌芸ともいうべきうたなのであろう。

 (藤原茂樹)

 

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