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第39回 しぐれの雨 仏前唱歌の音色(藤原茂樹)

2025年08月30日

 

 万葉時代に楽の音を感じさせる歌はめずらしく、琴の音とともに合唱団によって歌われる形態がこの時代にあったことも驚きであり、その歌が奈良時代には短歌形式のものであったというのも貴重な記録である。

 聖武天皇の后(きさき)であった光明皇后(こうみょうこうごう)が、祖父藤原鎌足のはじめた維摩講(ゆいまこう 維摩経を講じる法会)を、鎌足の七十回忌の供養のため皇后宮で開いたときに歌われた歌詞である。

 生前、鎌足が病に苦しんだとき、維摩経「問疾品」(もんしつほん 病気見舞)の誦唱(じゅしょう)によってたちどころにその病が癒(い)えたといわれている(『興福寺縁起』)。

 

 

 

しぐれの雨

間(ま)なくな降りそ

紅(くれなゐ)に

にほへる山の

散らまく惜しも 

作者未詳 巻八1594

右、冬十月、皇后宮の維摩講に、

終日に大唐・高麗等の種々の音楽を供養し、

尓して乃ちこの歌詞を唱ふ。

弾琴は市原王・忍坂王[後に、姓大原真人赤麻呂を賜る、]

歌子は田口朝臣家守・河辺朝臣東人・置始連長谷等十数人なり。

 

【歌の現代語訳】

しぐれの雨よ 絶え間なく降らないでおくれ 真っ赤に 染まっている山の紅葉の 散るのが惜しいよ

 

 光明子の宮殿は、謀殺された長屋王(ながやのおおきみ)邸の敷地に建ついわくつきの場所にある。それはともあれ、時は冬十月。一雨ごとに、美しかった平城京の山々が散り行き、冬枯れへむかう季節への惜別を、十数人の合唱団が琴を伴奏にして自慢ののどをふるわせたのである。

 后宮での演奏には、宮廷から雅楽寮(ががくりょう うたまいのつかさ)の楽人(がくじん)たちが召されたであろう、日がな大唐楽(だいとうがく)・高麗楽(こまがく)など種々の音楽が演奏された。雅楽寮というのは、大勢の楽器担当者のほかに、三十人の歌人と百人の歌女(かじょ)、いまでいう声のよい男女の歌手が130人も日々訓練を続けている機関である。実際の合唱の様態は知られていないが、平城宮跡から「大哥十七」という木簡が出ていることや万葉のこの例とをあわせみると、十数人一単位の歌い方があったとみる(拙論「天平の芸能」『天平万葉論』翰林書房)。

 この維摩講のときは、男性の歌人が后宮に集合している。雅楽寮の歌人ばかりでなく身分をもつ名だたるのど自慢も集っていただろう。歌詞の抒情性は、在来の和風そのもので、それを外来楽の場に適して、はいからに短歌が歌われた例とみている。―そのにぎやかしが長屋王一家の怨みを圧したりそらしたりすることの効果を意識していたか、今となってはわからない。―そのあたりの事情は多分に空想的だからあやういが、外来楽に在来の古歌をのせるという点で、日本の歌謡曲の源流である催馬楽(平安初期の歌謡)よりもだいぶはやい歌謡史の事例とみている。

 別に、万葉集には豊浦(とゆら)の尼(あま)の私房での宴歌があり、これも秋の過ぎる歌である。

  明日香川(あすかがは)行き廻(み)る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ

                   巻八1557 丹比国人(たぢひのくにひと)

 お寺の尼さんの部屋で、秋萩が雨に散りゆく無常を感じる風情をうたっている。

古く推古天皇時代に、渡来した伎楽(ぎがく くれがく)は、

『法隆寺伽藍縁起并資財帳』(ほうりゅうじがらんえんぎならびにしざいちょう)

『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)

『薬師寺旧流記資財帳』(やくしじきゅうるきしざいちょう)

『西大寺資財流記帳』(さいだいじしざいるきちょう)

などにみる調度類の記事から、大寺が保護したことがうかがわれる。この時代、宮廷楽は、雅楽が主流で、同時に日本の楽も受け継がれて教習されていた。やがてその壮観は、東大寺大仏開眼会(とうだいじだいぶつかいがんえ 七五二年)において諸芸能が一堂に会し強い印象を世に残すことになる。奈良時代の宮廷と寺々とおそらくは后宮などの音楽と芸能とが勢揃いするようになる。それはこの歌の十三年後となる。

 (藤原茂樹)

 

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