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第40回 采女(うねめ)の役割と歴史(藤原茂樹)
2025年09月30日

どうだ。このおれはな 安見児を手に入れたぞ 誰もが皆 手に入れかねているという評判の 安見児を、おれは手に入れたぞ
我(われ)はもや
安見児(やすみこ)得(え)たり
皆人(みなひと)の
得(え)かてにすといふ
安見児得たり
巻二・九五 藤原鎌足(ふじはらのかまたり)
藤原鎌足が亡くなり、天智天皇も崩御されて近江朝は滅びへ向かう。この鎌足の歌は、近江朝のきらきらしさの残照だ。二人に取り残された大友皇子(おおとものみこ)は、明治になり弘文(こうぶん)天皇という諡名(おくりな シゴウ)を贈られることになるが、壬申(じんしん)の乱で半年後に生を終えられる。后(コウ きさき)は十市皇女(とおちのひめみこ 父天武天皇、母額田王)、妃(ヒ きさき)は藤原耳面刀自(みみもとじ)と、皇族と高臣の娘を后妃とするが、大友皇子の母は采女(伊賀采女宅子娘 いがのうねめやかこのいらつめ)であった。伊賀国造家の娘が、宮廷に差し出され、天皇に見染められたのであろう。
『日本書紀』には、これ以前にも采女が天皇の御子を産む例がみえている。春日和珥臣深目(かすがのわにのおみふかめ)の女(むすめ)、童女君(おみなぎみ)はもと采女で、春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を生む(雄略天皇元年)。それは一夜だけの契りの子であった。他に、第三十代敏達(びだつ)天皇は、采女の伊勢大鹿首小熊(いせのおおかのおびとおぐま)の女、菟名子(うなこ)を夫人にして二皇女を(敏達天皇四年)、三十四代舒明(じょめい)天皇(天智 天武の父)が、吉備国の蚊屋采女(かやのうねめ)を娶って皇子を儲(もう)ける(舒明天皇四年)。
采女は、端麗な顔立ちをしている。「面貌端麗(かほきらぎら)しく、形容温雅(すがたみやびやか)」(雄略天皇二年)とも、「采女は、郡の少領より以上の姉妹、および子女の形容端正(かほきらぎら)しき者を貢れ。従丁(ともよぼろ)一人、従女(ともわらは)二人。」(孝徳天皇大化二年)とあるように、采女には、顔美しく立ち居振る舞いの優雅な女性が抜擢されるのが要件であった。
采女の 袖吹きかへす 飛鳥風(あすかかぜ) 都を遠み いたづらに吹く
巻一・五一 志貴皇子
(訳)その頃までは采女たちの袖をあでやかに吹きかえしていた、飛鳥の里を吹く風よ。都が遠くなったので、いまはただ空しく吹いている。
舒明・斉明・皇極・天武などの時代に長くはなやいだ帝都飛鳥を象徴する采女はこの地からいなくなった。都遷りとともに、美しいひとびとは去り、気配をなくした飛鳥のさびしさを采女の袖吹くあやかな風への追憶であらわしている。采女は帝都の栄華を心象する目を惹く存在であった。
養老令(奈良時代)の規定(後宮職員令条)では、采女は水司に六人、膳司に六十人配属されることになっているが、水や食膳にたずさわる職務や、美貌をもってえらばれる古い伝統が保持され、飛鳥時代から藤原・平城京の時代へと、男たちの関心を引きつづけたであろう。
本義では、はじまりは古い時代の、国造(くにのみやつこ)の服属のしるしとして奉られ、天皇に直属して食膳に仕えたものであったが、唐の国から令の規定がとりいれられると、本来神聖で高雅な職域が下級の女官の職域に貶(おとし)められた。令制以降、皇子女を生むような敬意ある位置を失った。天皇が采女を身近に置くのは、もとは国々の祭祀(さいし)をになう女を得て、地方の祭祀権を掌握することにあった。逆に、神と天皇のみに仕える特別な女性としての憧れが、人を高揚にみちびいた。万葉の歌には、その時代の想念が残されているようにみえる。
ちなみに、やすみこの名の本義は、神が訪れてひとときやすむという折口信夫説がある。神を迎え関係をもつ女性をそういう。それゆえ、やすみこは個人名であるかの疑いが残る。平安時代の源氏物語ではみやすみどころ(御息所)は極めて身分の高い女性の呼び名として描かれる。神の手のつく女性、天皇のみにゆるされる女性を、やすみという名は連想させる。国々から貢がれた端正な容姿をもつ采女たちの中にあって、えりぬかれて、宮廷祭祀の秘儀の中で、神・天皇を迎える役割につく、ことさらえりぬかれた神聖な女性としての信仰色の濃い名が「やすみ」の本義である。一方で。これを得たと言挙げする鎌足は、もとは神と人との間に立つ宗教職の中臣出身であり、中臣から離脱して、宗教色を廃した藤原の氏祖となり政治を独占してゆくことになる古い伝統を打ち崩す素顔をもつ。伝統を尊ぶ人々には、聖域内にいる清らかな乙女にまで古来の類型の破壊者の侵犯がすすんだ背筋が寒くなる歌として聞こえたかもしれない。
(藤原茂樹)
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