高岡市万葉歴史館
〒933-0116 富山県高岡市伏木一宮1-11-11
(とやまけん たかおかし ふしきいちのみや)
TEL:0766-44-5511 FAX:0766-44-7335お問い合わせ

まんれきブログ -
日めくり万葉集ブログ-万葉からMANYOへ-

第45回 婢(まかだち)の恋―ご飯を食べてもおいしくないという歌―(藤原茂樹)

2026年03月30日NEW

 

ごはんを食べるが おいしくもない

眠っていても 落ち着かない

はつらつと輝く あなたの その心が 

わすれられないの

 

 

飯(いひ)はめど うまくもあらず 

寝(い)ぬれども 安(やす)くもあらず

あかねさす 君がこころし 

忘れかねつも

巻十六・三八五七  

佐為王の婢(さゐのおほきみのまかだち)

 

 

 「夫(せ)の君に恋ふる歌」と題される全7句の最小の長歌である。歌の主は佐為王の婢(まかだち)のようで、後に述べるめずらしい設定の歌で、他人にきかせるつもりのない歌であった。王邸宅内の夜間の出来事のものなので、まず王のことを短く紹介する。

 佐為王橘諸兄(たちばなのもろえ)の弟で、母が宮廷女官の頂点にいた県犬養(あがたのいぬかいの)三千代(後に県犬養橘三千代となる)、光明皇后とは父のちがう兄妹という人である。血筋は、敏達天皇の5あるいは6代目の皇族で、日本書紀によると、壬申の乱のとき、太宰府長官であった祖父栗隈王と父三野王(当時まだ少年)が、近江がたの要求を毅然としてはなつけた誇り高い家筋である(かつて拙論「三野王に関する基礎的考察」萬葉125号に述べた)。佐為王は聖武天皇の側近として、天平の初めころ風流侍従の名をほしいままにしたグループの一人として名高かった。

 この歌の主は、王に近習する婢であった。ある宿直の夜のこと、寝ていたその女性が、目覚めたあと突然声高にこの歌を吟詠した。婢の嘆息など、一笑にふされて瞬時に消え去るはずなのに、邸外に出て世に伝わったについては、佐為王の評判が世間の耳を魅惑する力をもっていたからであろう。歌には左注が記されている。

 王の身の回りを世話する女性たちの中に、近頃夫をもった婢がいて、ここのところ宿直が続いてばかりで、恋する夫に長く逢えていない。ある宿直当番の夜、夢に若々しい夫が現れたので、手探りで抱きつこうとしたら、空をつかんでしまって眼が覚めた。あまりに落胆して、嗚咽しながら声を高く出してこの歌を吟詠した。王はこれを聴いて不憫に思い、「永に侍宿を免す」(これからは宿直をしないでよいよ)と命じられたという話

 佐為王の人柄がやさしく、下々の恋心に理解をもつ、さすが風流を体得しているとはこういうことなのであろう。夢の中で歌を覚えたとは書いていないので、婢の嘆きのことばは、もしかしたら、通常いうところの歌ではなかったのかもしれないが、風流精神の体現者の王はこれを歌として聴き取ったのかもしれない。

 さて、こうした当代きっての有名人は、いつの時代にもたいへん気になる存在であるし、記憶にも残りやすいが、一方社会の隅にいて特段注意されもしない婢は、いつの代も記録少なく古代社会ではなおさら実態不明であるが、ほんのかすかな消息は残されていて、埋もれ木みたいな女の人生を断片的にだが辿ることはできる。

 たとえば、長屋王邸宅には土師女(はじめ)染女(そめめ)縫殿女(ぬいとのめ)という女性職人や筥入女(はこいりめ)という婢がいたことが木簡にみえる。婢は役所や各家に隷属して雑仕事をする女性である。筑前国の或る戸籍に戸主奴婢十口(口は人の数え方)、戸主母奴婢八口(東大寺正倉院文書三八)とある例などから推すと、社会の隅々に奴婢の数は相当いたはずである。

 奴婢は姓をもたず、解放されないかぎり賎身分を世襲した。大宝令では、「官戸(かんこ)」と官奴婢(かんぬひ)の「公(く)奴婢」「家人(けにん)」と奴婢の「私(し)奴婢」とに分け、養老令で陵戸(りょうこ 陵墓の守人)を合わせて五色の賎と呼ばれた。神賎や寺賤(国分寺・東大寺・興福寺・法隆寺・薬師寺・四天王寺などの奴婢の記録が残る)もいた。

 持統天皇七年(六九三)の詔に、百姓をして黄色衣(きそめのきぬ)を、奴は皁衣(くろきぬ)を服せよとあり、養老「衣服令」に、家人・奴婢は橡墨染衣(つるばみすみぞめ)と定める。つるばみで染めた黒衣が奴婢階級の身分標識となっていた。奴婢についても令の規定がみえるが、本歌のような宿直のことは手掛かりがない。

 奴婢の結婚は認められているが、同色との結婚が原則である。一方、

稲搗(つ)けば かかる我(あ)が手を 今夜(こよひ)もか 殿の若子(わくご)が とりて嘆かむ 

(巻十四・三四五九)

 精米の稲搗き作業であかぎれひび割れして痛くなったわたしの手を、この夜もお屋敷の若君が手をとって包むようにしながら嘆いてくれるだろうか

と空想される身分違いの恋は、実際にも起こり得た。およそ秩序重視の世では、恋は不行儀なものとされることが少なくない。まして、階層社会の古代日本では、奴婢を相手の色恋は「艶色をむさぼり」「淫奔を挟む」(類聚三代格)として眉をひそめるのが常である。が、こうした命令が残ることからして、現実には少なくなかったのであろう。そうした場合、良民(天皇・皇族・賤民以外の人)との結婚は「夫良妻賎」「夫賤妻良」のいずれも、生まれた子は、良民として育てられる定めになっていた。

 (藤原茂樹)

  • 「日めくり万葉集ブログ-万葉からMANYOへ」は、毎月1回投稿予定です。