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第28回 栗を食すくらし(藤原茂樹)

2024年09月30日NEW

足柄(あしがら)の

箱根の山に

粟(あは)蒔(ま)きて 

実(み)とはなれるを

あはなくも怪(あや)し

巻十四・3364

 (作者不明)

〔現代語訳〕足柄の箱根の山に 粟を蒔いて 無事に実ったというのに 逢わないなんておかしいな

 

 

 粟を蒔くのは5~6月で、10~11月に実る。作者は若い人で、畑の作業をしながら恋を想っている。野良仕事が、恋占いとつながることもある。あははあふに連想がいくし、粟の育成は、恋の成就の過程に似ると思えば秋が近づけば胸がふくらむ実れば、この恋も実り、農閑期には晴れて出会えるにちがいない。半年願い続ける青春の呪術だ。
 でも、秋になってみたら、呪術の効果がでていない。怪訝だ、うまくいかないものだ。それだけに、この歌が現代までひびいてくる。

 は、『古事記』では、大宜津比売神(おおげつひめのかみ)の耳に、『日本書紀』では保食神(うけもちのかみ)の額(ひたい)に生じ、同時に生じた稲・稗(ひえ)・麦・豆とともに五穀(ごこく)といわれ、カムムスヒ神・アマテラス大神に見出されて、人間が食べて生きるもの(食料)とされた。いわゆる五穀の起源神話。

 日本人に馴染みの深い、古い食べものである。最近は、あまり粟畑をみかけることがなくなった。粟・稗・稷(きび)は、小粒で脱穀に手間がかかる。また臼で搗(つ)くと搗き減りが多く、効率がよくないし、栄養も米におとる。そこで、古くから稲作に適さない土地に作られることが多かった。かつては、焼き畑農業をしていたところも多かったが、焼き畑輪作は、一年稗・二年小豆・三年粟・四年サトイモを耕作して、その後十五年~三十年焼き畑地を放棄・休閑させておく。粟は、縄文時代から日本人の身近にある穀物だった。
 いまとなっては、夢のように時代が通りすぎたように思えて、わたしたちのほとんどは実際の粟のことを失念してしまっている。

 つぎのような歌もある。

ちはやぶる 神の社(やしろ)し なかりせば 春日(かすが)の野辺(のへ)に粟蒔(あはま)かましを

巻三404娘子、佐伯宿祢赤麻呂が贈る歌に報ふる歌

*娘子(おとめ)の名前は記録されていない

訳 おそろしい神の社さえなかったならば、春日の野のあたりに粟をまこうと思うのに、お社が邪魔をしているのでね。

 春日野には神の社があるので、神域をおそれて粟を蒔けやしない。社がなければ、野でお逢いできるのに、残念ですね。貴方には怖いおつれ(妻)がいるのでやめます、という断り歌。これも粟(あは)に〈逢ふ〉を連想している。

 万葉時代の日々の食卓は、詳細不明である。特に一般人のくらしの食事は、史料が極端にすくない。ただ、近代まで主食は、米に麦・粟・稗・イモなどを増量して日々の糧(かて)とした地方は実に多い。それにくらべて都会は早くに米主体となっていた。コメの配分は、地域・身分差で異なる。その事情は古くから変化がなかった。弥生時代以来日本人の主食は米としても、粟も常食の穀物であった。

 (藤原茂樹)

 

「粟の穂」photoACより

 

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