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日めくり万葉集ブログ-万葉からMANYOへ-
第27回 ハスとイモの葉(藤原茂樹)
2024年08月30日
蓮葉(はちすは)は
かくこそあるもの
意吉麻呂(おきまろ)が
家なるものは
うもの葉にあらし
巻十六3826
長意吉麻呂 (ながのおきまろ)
〔現代語訳〕
蓮の葉とは かくも立派なものであるのか
はて、だとすると、意吉麻呂の家に生えているのは どうやら芋の葉っぱだな
万葉集にイモ(里芋)を詠む歌は、この一首だが、ハスは四首(3289、3826、3835、3837)。イモの葉は、一茎につく数は少ないが、広く大きく感じがよい。蓮葉と、厚みや広がる安定感が似ていなくもない。
この歌は、よその家でハスの葉を見たところ立派なので、我が家にあるものはとても蓮葉とはいえそうもない。イモの葉だという。でも、貧弱ではあっても蓮葉を歌っているのだろう。「府家に酒食を備へ設(ま)けて、府の官人等に饗宴(あへ)す。ここに饌食(ざんし)は盛るに、皆蓮葉(はちすば)を用(も)ちてす。」(3837)と、ハスの葉を食器にする趣向がみえるから、作者は招かれて蓮葉の食器に盛られた宴の設けを讃えているのだろう。現代だと、大きな長い葉(ハラン・馬蘭)ににぎり寿司が盛られる風習があるので、まんざら失われた感覚ではない。今も盂蘭盆会(うらぼんえ)には蓮葉を食器とする風習が残されている。
ハスは、レンコン(蓮根)はもとより、種子の胚乳(はいにゅう)、花茎(かけい)も食べることができ、余すことのない有用植物である。さらに、ハスの花の美は、超俗的で、芥(あくた)に染まぬ清楚を完備し、気品高い植物として認知される。古くからさまざまな仏教美術に造形されていることもよく知られている。その渡来は、大賀(おおが)ハスに示されるように、二千年以上前。一方、熱帯アジア原産のイモ(里いも)の渡来も、古いが年代不明。球茎と葉柄(ようへい ズイキ)を食用とするが、葉も花も蓮の存在感にはかなわない。
『出雲国風土記』に、島や浜に芋ありとみえ、水辺にあった。私事だが、トカラ列島の口之島(くちのしま)に渡ったとき、湿地に育つ田芋をみたことがある。水に浮く葉は生命(いのち)にあふれ、古代の水辺のイモを想像したものだ。稲の育ちにくい南の島々には、米文化以前の、芋の基層文化がひそんでいる。イモは平安時代の辞書『和名抄』に、以閉都以毛(いへついも)とし、本歌でいえば、家でつくる卑近さや葉の無用さがハスにくらべると恥じ入るようなもので、その落差がほのぼのとした笑いをもたらす。もしかしたら、招かれた家の奥方と我が家の妻女とをうたのうらがわに暗示しているかもしれないが、謙遜卑下する意吉麻呂の家が庶民的でかざりのない明るい家庭に思えてくる。
※上の画像は古河公方公園の大賀ハス(photoACより)
(藤原茂樹)
沖縄の田芋(photoACより)
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