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日めくり万葉集ブログ-万葉からMANYOへ-
第36回 家持と真珠(藤原茂樹)
2025年05月30日

一人寂しくしている私の妻の
心のなぐさめに 贈ってやろうと思うから
はるか沖合の島の
真珠がぜひ欲しいものだ
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我妹子(わぎもこ)が
心なぐさに 遣(や)らむため
沖つ島なる
白玉(しらたま)もがも
巻十八・4104 大伴家持(おおとものやかもち)
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能登の沖合はるかな海上にはいくつか島が浮かび、その海底から海女たちは、真珠貝をつかみとってくるという。家持は、そんな話を聞いたのだろう。都に残してきた妻に、真珠(しらたま)を贈ってやれたら、その寂しさはやわらぐだろうかとやさしく想う。
家持はそれを入手できただろうか。残念だが記録に残されていない。
やむなく、わずかに知るわが国古代の真珠事情について書き留めておく。
家持の時代を五百年ほどさかのぼる、現代から千八百年ほど前のことである。日本は倭(わ)と呼ばれていた。その頃すでに、祖先たちは白玉を宝として尊んでいた。『魏志』倭人伝に、邪馬台国(やまたいこく)の台与(壱与)(とよ・いよ)が魏国に白珠五千孔を貢上したとある。海を舞台に、倭の水人は、「好んで沈没して、魚蛤を捕う」という生業をなしていた。水人が海の底に小さな利を探る神秘な作業をしていたとわかる。「五千孔」とは、おそらく、孔(あな 穴)をあけて糸を通すようにした真珠を数えたもので、五千は、一国の貢ぎ物として満足を得る数なのであろう。どれほどの数の水人(海女あるいは海人)たちが潜水をくりかえして採取したか想像を超える数である。
時は下り、十世紀初頭、宮廷は志摩国(現在の三重県)から年毎に「白玉一千丸」を送らせていた(『延喜式』内藏諸国年料供進)。その多くは、粒ほどのけし真珠であっただろうが、数からして真珠がめったにとれないものではないとわかる。
多数を安定的に貢進するには、大規模な積極採取をしたはずだが、の現物は千百年ほど後のわたしたちの時代までに消滅・亡失して残されず、貴族の家庭に届いたのかなど普及のほどは知りがたい。
ところで、わが国における古代真珠は、正倉院に残るものがほとんどとされ(『正倉院紀要』14号)中でも聖武天皇が大仏開眼会に使用した御冠に、三千八百以上の真珠を垂飾にしたものが印象的である。ただし、帯、履(くつ)、刀子(とうす)、如意(にょい)などの飾りにされたそれら宝物真珠は、海水産貝の天然真珠で、大半はアコヤガイのものという(同紀要)。しかし、宝物の鑑定とは逆に、万葉集において歌われるのはアワビ玉だけである。しかも能登では、そもそも房総半島以南に生息するアコヤガイの玉は得られない。家持が望んだ、能登沖つ島の真珠はアワビ貝の真珠ということになる。
海神(わたつみ)の 持てる白玉 見まく欲(ほ)り 千度(ちたび)そ告(の)りし 潜(かづ)きする海女(あま)は
巻七 1302作者未詳
これは能登の海の歌ではなけれど、海風に吹き散らされる海女の苦し気な磯笛を聴いていた人がいたようだ。大和盆地に住む宮廷貴族では、めったに見ることがない海女たちは、いまだ夢想の中の実感希薄な存在だったであろうが、一介の旅人としてではなく、家持は越中の海べりに住んで、海人の生態にすこしだけでも通じ、生態を知り得た稀有な貴族だったように思う。
(藤原茂樹)
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