高岡市万葉歴史館
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第18回 続・続・続酒の歌(坂本信幸)

2024年01月30日

   大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)の歌一首

酒坏(さかづき)に 梅の花浮かべ 思ふどち 飲みての後(のち)は 散りぬともよし

(巻8・一六五六)

〔原文〕酒坏尓(さかづきに) 梅花浮(うめのはなうかべ) 念共(おもふどち) 飲而後者(のみてののちは) 落去登母与之(ちりぬともよし)

〔現代語訳〕盃に梅の花を浮べ、親しい仲間同士で飲んだそのあとは、散ってしまってもよい。

  和(こた)ふる歌一首

官(つかさ)にも 許したまへり 今夜(こよひ)のみ 飲まむ酒かも 散りこすなゆめ

(巻8・一六五七)

〔原文〕官尓毛(つかさらも) 縦賜有(ゆるしたまへり) 今夜耳(こよひのみ) 将飲酒可毛(のまむさけかも) 散許須奈由米(ちりこすなゆめ)

〔現代語訳〕お役所でもお許し下さっている。今夜だけ飲む酒ではないのだ。梅よ散らないくれ、けっして。

右、酒は官(つかさ)に禁制して偁(い)はく、京中(けいちう)閭里(りより)、集宴(じふえん)すること得ざれ、ただし、親々一二(しんしんひとりふたり)にして飲楽することは聴許(ゆる)す、といふ。これによりて和(こた)ふる人この発句(ほつく)を作れり。

 

 大伴家持の父大伴旅人は「酒を讃むる歌十三首」と題する歌を残していて、その中には「なかなかに人とあらずは酒壺(さかつほ)になりにてしかも酒に染(し)みなむ」(巻三・三四三)という歌が見られるなど、相当な酒飲みであったことがわかるが、旅人の妹(家持の叔母であり、義母)の坂上郎女も酒飲みであったことが、この歌から知られる。家持ももちろん酒飲みであり、大伴家は体質遺伝的に酒飲みであったと思われる

 万葉集中に「酒」の語が詠み込まれた歌は全三十一首。そのうちの二十首が大伴氏関係の歌であり、酒の歌の大半が大伴氏に関わる。さらに、「題詞」中に「酒」の語を含むもの全十五例中八例が家持関係で、「酒」の語を含む家持関係の題詞八例中七例が越中での用例である。越中万葉と酒、大伴家持と酒とは縁が深いといえる。

 坂上郎女の歌は、盃に梅の花を浮べて飲むという風流な飲み方が歌われているが、当時は白梅であるから、おそらく花びらと酒との区別がつきにくい濁酒ではなく、清酒(すみざけ)に浮かべたものと考えられる。梅の花は香りが高いので、視覚と嗅覚が味覚に加わり一層美味く感じられるのである。
 天平二年正月十三日の梅花の宴においても、壱岐目(いきのさかん)村氏彼方(そんしのをちかた)によって、

春柳 縵(かづら)に折りし 梅の花 誰(たれ)か浮かべし 酒坏(さかづき)の上(へ)に(巻5・八四〇)

と歌われ、旅人作かとされる「後に追和する梅の歌」にも、

梅の花 夢に語らく みやびたる 花と我思ふ 酒に浮かべこそ〈一に云ふ「いたづらに 我を散らすな 酒に浮かべこそ」〉(巻・八五二)

とその趣向が歌われている。

 左注によると、歌のうたわれた当時、禁酒令が出されていたことになる。禁酒令は、『続日本紀』によると、天平四年(七三二)七月五日、天平九年五月十九日、天平宝字二年(七五八)二月二十日に発令されており、上森鉄也「坂上郎女の梅花の歌と禁酒令」(『語学と文学』第20号)は、梅花の宴との関係などから見て、天平四年の禁酒令とかかわるものかという。『全注』は「四年であれば、旅人の死後一年目にあたり、同族の集まる機会もその縁で考えやすい」とする。ただ、四年の発令は「春より亢旱して、夏に至るまで雨ふらず」という日旱による凶作に関わり「酒を禁(いさ)めて屠(はふ)りを断(た)て」とされたもので、左注の「京中閭里、集宴すること得ざれ」という禁令とはやや齟齬がある。

(坂本信幸)

 

※画像は、昨年逝去された故玉井晶夫万葉集全20巻朗唱の会にいざなう会会長が高岡市にご寄贈され、当館で展示中の「梅花の宴ジオラマ」です。製作は丸山幸一氏。丸山氏は、当館の奈良時代の伏木台地ののジオラマも制作。平成24年度秋の特別別企画展では「万葉の切り絵―丸山幸一の手仕事-」展を開催しました。

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