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第19回 万葉びとと温泉(藤原茂樹)

2024年02月15日

足柄(あしがり)の

刀比(とひ)の河内(かふち)に

出(い)づる湯の

よにもたよらに

児(こ)ろが言はなくに 

巻十四3368  相模国歌

 

(訳)足柄山の土肥の、川沿いのいで湯が、ゆらりゆらり。いかにも、こころが揺れたように、あの娘(こ)が言ったわけでもないのになぁ

 

 刀比は、現在の神奈川県の湯河原町真鶴町一帯、後世「土肥」と書かれる地である。「刀比の河内に出づる湯」とは、湯河原町の千歳川と上流の藤木川両岸あたりの出湯をいう。湯河原温泉は明治までは自噴泉であり際立った景勝地でもなく僻地であることも手伝って、にぎわってはいなかった。それゆえ、万葉の時代も湯治場として著名というのではなかったと考えられる。したがって、歌は湯治客のものではなく、出湯のゆらめきに恋の行方を想う土地の男女の機微を映し出したものだろう。 

 万葉の時代から、すでに全国各地で温泉は人々に好まれていた。その薬効も経験的に知っていた。時代の少し下る書物だが、日本の国語辞典の原型ともいえる『和名抄』に、「温泉百病久病入此水多愈矣一云湯泉和名由」、温泉が多くの病や長患いを癒やすとして和名で「ゆ」というのだとある。わが国独自のことばの「ゆ・湯」は、「ゆ・斎」に通じる。「ゆ・湯」が神聖・清浄(ゆ・斎)をもたらす神妙な水(ゆ)のためであろう。万葉の時代たとえば、今の島根県の玉造温泉の地では川辺に出湯があり、男女老少が日々道につらなり市をなし、「一たび濯げば形容端正しく、再び沐すれば、万病悉くに除ゆ」(『出雲国風土記』)と体によいと知っていた。

 万葉の歌人では、斉明天皇・有間皇子・額田王が現和歌山県の白浜温泉に行き、愛媛の道後温泉には、聖徳太子・舒明・斉明・天智・天武各天皇、また山部赤人が訪れている。大伴旅人が福岡県の二日市温泉に行ったことも知られているし、兵庫県有馬温泉に、舒明天皇や病気療養のために大伴坂上郎女の母石川命婦が出かけたことも記録に残る。

 日本人の温泉好きは、万葉の時代すでに始まっていたのである。

 では、大伴家持はどうだったのだろうか。父のように温泉に行った歌は見られない。天平二十年(748年)能登巡行において今の和倉温泉近くに出かけ、能登島や香島・熊来の歌を残している家持だが、和倉温泉における湯の湧出は家持以後50年以上経ってからのようだ(日本歴史地名大系『石川県の地名』和倉温泉)。 

 この度(2024年1月1日夕刻)の地震で甚大な被害をうけたこの温泉地の復興を祈るとともに、火山列島の湯の恵みを受け取るわたしたちは危険な大地の上での日常生活を永遠に続ける民族でもあることをあらためて感じている。

(藤原茂樹)

 

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