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第20回 続・続・続・続酒の歌(坂本信幸)

2024年02月28日

賢(さか)しみと

物(もの)言(い)ふよりは

酒飲みて

酔(ゑ)ひ泣(な)きするし

優(まさ)りたるらし

  (巻3・三四一)

〔原文〕 賢跡(さかしみと) 物言従者(ものいふよりは) 酒飲而(さけのみて) 酔哭為師(ゑひなきするし) 益有良之(まさりたるらし)

〔現代語訳〕賢ぶってものを言うよりは、酒を飲んで酔い泣きする方がまさっているらしい。

 

世間(よのなか)の

遊びの道に

楽しきは

酔ひ泣きするに

あるべかるらし

(巻3・三四七)

〔原文〕世間之(よのなかの) 遊道尓(あそびのみちに) 怡者(たのしきは) 酔泣為尓(ゑひなきするに) 可有良師(あるべかるらし)

〔現代語訳〕世の中の遊びの道において楽しいことは、酔い泣きをすることにあるらしい。

 

黙(もだ)居(を)りて

賢(さか)しらするは

酒飲みて

酔ひ泣きするに

なほ及(し)かずけり

(巻3・三五〇

〔原文〕 黙然居而(もだをりて) 賢良為者(さかしらするは) 飲酒而(さけのみて) 酔泣為尓(ゑひなきするに) 尚不如来(なほしかずけり)

〔現代語訳〕黙っていて賢ぶっているのは、酒を飲んで酔い泣きをするのにやはり及ばないものだ。

 

 酔っぱらいには、「笑い上戸」、「泣き上戸」、「怒り上戸」の三上戸のほか、さまざまな上戸があるが、大伴旅人は「大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首」(巻3・三三八~三五〇)の中に上記三首の「酔ひ泣き」の歌を残していることからすると、泣き上戸だったのかも知れない。しかし、九州全土を統括する大宰府の長官が泣き上戸で、宴席で泣かれたりすると、部下は大変だったに違いないと、泣き上戸の師匠をもった私などは思うのである。
 とはいうものの、当時の酒はかなり度数は低かったはずであるから、酔っぱらいといっても今日のような酔っぱらいではなかったはずで、大伴旅人はそれほど酒が強くなかったのであろう。
 当時の人がどれほどの量の酒を飲んだのかはよくはわからない。国守が管轄する国内を巡察する時に受ける支給の中に毎日酒が一升あり、属官を伴えばその者も一升もらう、書記生は八合もらえることになっていたようだから、支給された酒を毎晩飲めばかなりの酒飲みのように思われる。しかし、当時の度量衡だと、一升が今日の四合くらいということだから、度数の弱いこともあり、一升飲んだとしてもまあそれほどのことではない

 旅人の生きた時代からは百十余年後のことではあるが、『続日本後紀』承和十年(843)三月二日条に見える文室秋津(ぶんやのあきつ)の死亡の記事には、「非違ヲ監察スルコト最モ是其ノ人也。亦武芸ヲ論ズレバ、驍將ト称スルに足レリ。但ダ飲酒ノ席ニ在サバ、丈夫ニ非ザルニ似タリ。毎ニ酒三四杯ニ至レバ、必ズ醉泣之癖有ル故也」と見え、文室秋津は、日頃勇猛な人物であったようだが、酒席では「士大夫(ますらを)」というにはほど遠く、酒の三四杯も飲めば、酔い泣きをするという癖があったことが記されている。正史としてはかなり珍しい記事といえ、よほどのことであったのだろう。
 秋津は智努王(ちぬおう)の孫であるが、智努王は万葉集に

天地(あめつち)と 久しきまでに 万代(よろづよ)に 仕へ奉らむ 黒酒(くろき)白酒(しろき)を

(巻19・四二七五)

という歌を残している。

(坂本信幸)

 

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