高岡市万葉歴史館
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第21回 大伴家持と万葉集(藤原茂樹)

2024年03月15日

 大伴氏は、祖先神が天孫の伴をしてきた誇り高き一族である。五世紀後半の雄略天皇の代から政治の中枢を担っていたが、六世紀半ば大伴金村(かなむら)の対外政策失敗以降力を落とした。六七二年壬申乱での活躍により息を吹き返したが、奈良時代になると藤原氏の権勢におされていく

 大伴家持の代になり、頼みにしていた橘諸兄(たちばなのもろえ・~七五七)も亡くなり、諸兄の子の奈良麻呂(ならまろ)の謀反(七五七年、同族の大伴古麻呂(こまろ)も加担)は、家持の心をいよいよ空虚なものにした。大伴氏は段々に衰えて十世紀半ばには歴史から姿を消す。家持の空虚感は、一族の遠い先の末路の予感にみえるのであった。七五八年、家持は因幡守(いなばのかみ)に任じられ、翌年元旦に、

新(あらた)しき 年のはじめの 初春の 今日降る雪の いやしけよごと

(巻二十・四五一六)

と詠んだ歌が『万葉集』終焉歌となっている。当日は朔旦立春(元日と立春とが約30年目に重なるめでたい日)で、加えて雪が祝福するように降る。元旦、立春、雪の要素が合わさりすばらしいことが起きている、こんな風にめでたい事が度重なるようにと慶びと希望をこめた至上の歌である。新年の起点である元日の歌を歌集の終結に用いている。

 早くに契沖(一六四〇~一七〇一)は、『万葉集』の編纂者を大伴家持とし、その構成は二部に分かれていると説き、巻一~十六は部立(雑歌、相聞、挽歌、寄物陳思、正述心緒など)により整理されている(巻十五を除く)が、末四巻は家持の歌日誌の姿であり、歌集全体は同一視点で作られてはいない。編纂の痕跡が多層性をもち、家持に至ってほぼ完結したとするのが現在の説である(他説もある)。

 因幡から帰京した家持は信部大輔(しんぶだいふ・中務大輔)の地位につき、七六三年ころ藤原良継(よしつぐ)・石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)らと藤原仲麻呂暗殺を謀るが未遂に終わり、七六四年薩摩守に左降される。その後参議に復帰。七八二年、氷上川継(聖武天皇の娘が母)の変に連座し、京外に移される。七八五年中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍として、同八月没(六八歳)。死後二十日過ぎ藤原種継暗殺事件に早良皇太子(さわらのみこ・桓武天皇の弟)と共に連座し屍を葬られぬまま官位剝奪除籍される。子の永主は配流。不幸な死後である。手元にあった『万葉集』は没収され官蔵に眠ることになる。乙訓寺(京都府長岡京市)に幽閉された早良は飲食を絶つこと十余日、淡路島配流途次で憤死する。亡骸は淡路の塚に収められた。

 それからである。餓死の親王霊は怨霊となり、天皇と新皇太子(後の平城天皇)父子に祟るようになる。周囲の女性たちが次々に命を失い、皇太子の体に異変が生じる。七九一年、卜占の結果早良の祟りと判明し、朝廷は淡路の墓に使者を遣り慰撫するが祟りはやまず、桓武は早良に崇道天皇の号を与え、淡路墓を山陵とした。早良の春宮大夫であり官位姓名を剥奪されていた家持は八〇六年復位された。

 この時、官庫に眠っていた『万葉集』が家持の名誉とともに目覚めのときを迎えた。家持没後二十一年、万葉集終焉歌から四十七年後の怨霊蠢く時代の底から宝石のような価値を現す事になる。

(藤原茂樹)

 

※画像は高岡市万葉歴史館蔵「寛永版本万葉集」最終歌部分

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