高岡市万葉歴史館
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まんれきブログ -
越中万葉歌を読む~越中万葉かるたの世界~

101回 大伴家持の長歌・その1~弟を哀しむ~

2022年05月25日

 

…はしきよし 汝弟の命(なおとのみこと)

 なにしかも 時しはあらむを…

…いとしいわが弟よ、いったいどういうことだ、

 死ぬべき時もいつだってあろうに…

 

 今回から10回にわたって、越中万葉の中から長歌の名歌を取り上げます。

 大伴家持は天平18年(746)の8月には越中に赴任したようですが、翌9月に奈良の都にいた弟・書持(ふみもち)が亡くなったという知らせを受け取ります。 その時に詠んだ長歌です。

 大伴書持は、家持が越中に赴任する際に「泉河(現在の木津川)」まで見送りに来てくれたこと、植物を愛する性格であったこと、そして亡くなった後に佐保山で火葬されたことなどが述べられています。

 死者に対して「(死ぬ)時は他にもあるだろうのに」と訴え、使者に対して「どうしてそんなことを告げるのか」と責めるのは挽歌に特有の表現です。家持はその伝統を踏まえてこの長歌を詠んだということになります。 

 連載第12回では、この長歌の反歌について書いていますので、そちらもご覧下さい。

(鈴木崇大)

 

長歌(ちょうか)

5・7を3回以上繰り返し、5・7・7で歌い収める歌の型。

反歌(はんか)

長歌に添えられた短歌。長歌の内容を要約することが多い。

 

 

 

長逝せる弟を哀傷ぶる歌一首 并せて短歌

死んだ弟を悲しみ痛んだ歌一首 と短歌

 

天ざかる 鄙(ひな)治めにと 

(あまざかる)鄙の地を治めるためにと、

大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに 

大君の仰せのままに、

出でて来し 我を送ると 

出かけてきたわたしを見送るといって、

あをによし 奈良山過ぎて 

(あをによし)奈良山を過ぎて、

泉河(いづみがは) 清き川原に 

泉河の清らかな川原で

馬留め 別れし時に 

馬を留めて別れたときに、

ま幸(さき)くて 我帰り来む 

「無事にわたしは帰ってこよう、

平(たいら)けく 斎(いは)ひて待てと 

おまえも元気で、

無事を祈りながら待っていておくれ」と

語らひて 来し日の極(きは)み 

語りあった日を最後に、

玉桙(たまほこ)の 道をた遠(どほ)み 

(たまほこの)道は遠いし、

山川(やまかは)の へなりてあれば 

山や川も隔てているので、

恋しけく 日(け)長きものを

恋しさは日ごとにつのるばかりで、

見まく欲(ほ)り

思ふ間に 逢いたいと思っているところへ、

玉梓(たまづさ)の 使ひの来れば 

(たまづさの)使いが来たので、

嬉(うれ)しみと 我が待ち問ふに 

なんとうれしいことかと

わたしが待ちかまえて問うと、

逆言(およづれ)の 狂言(たはこと)とかも 

でたらめなふざけたうそではないのか、

はしきよし 汝弟(なおと)の命(みこと) 

いとしいわが弟よ、

なにしかも 時しはあらむを 

いったいどういうことだ、

死ぬべき時もいつだってあろうに、

はだすすき 穂(ほ)に出づる秋の 

すすきが穂を出す秋の、

萩(はぎ)の花 にほへるやどを 

萩の花の咲きにおっている家の庭を

〔言ふこころは、この人、人となり 

〔こう歌ったのは、この人は生来、

花草花樹を好愛(め)でて多く寝院(しんゐん)の庭に 

花草・花樹が好きで、いっぱい母屋の庭に

に植ゑたり。故に「花薫(にほ)へる庭」といふ〕

植えていたからだ。

それで「花薫へる庭」と言ったのである〕

朝庭(あさには)に 出で立ち平(なら)し 

朝の庭に出て立ちならすことも、

夕庭(ゆふには)に 踏み平(たひら)げず

夕べの庭に踏みならすこともせずに、

佐保(さほ)の内の 里を行き過ぎ

佐保の内の里を通り過ぎて、

あしひきの 山の木末(こぬれ)に

(あしひきの)山の梢に

白雲(しらくも)に 立ちたなびくと 

我に告げつる

白雲となって立ちたなびいているなどと、

どうしてわたしに知らせたのか。

〔佐保山に火葬す。

ゆゑに「佐保の内の里を行き過ぎ」といふ〕

〔佐保山で火葬した。

それで「佐保の内の里を行き過ぎ」と言った〕

(巻17・三九五七)

 

 

 

 

 

【さらに詳しく知りたい方へ】

高岡市万葉歴史館編

『越中万葉百科』

笠間書院・2009年刊

458頁・定価2600円(税別)

 

 

※引用した歌本文は、上記の『越中万葉百科』によります。